語り得ぬもので描く
感性を取り戻す
以前、この記事で感性を養うために絵画教室の体験に行ってきた話をしました。
それから現在まで、絵画教室にはほぼ休まず通い続けております。
授業は土曜の午前中なのですが、平日の疲れで朝起きるのが大変でも通うことができています。
絵画教室とは、私にとってはそれぐらい大切な生活の一部となりました。
さて、当初の目的は労働で摩耗した感性を取り戻すことでした。
平日は自由の無い環境で働き詰めになり、上から言われたことを忠実に実行することだけに意識を割き、些細な評価や人間関係で一喜一憂する――このような生き方では人生を味わうことはできず、定年退職するときにはいつの間にか老人の姿になっていると恐れて、駆け込み寺のように絵画教室の体験に行ってみたのでした。
それからしばらく時間が経ちましたが、いろいろと絵を描いてみて思ったことを書き連ねていきたいと思います。
技法と承認欲求
絵画を描いていると、どうしても技法が大切になってきます。
どうやら芸術家の中には技法を敵視する界隈もあるようですが、とはいえある程度の技法が無いと表現の幅が広がらず、結局つまらなくなって絵を辞めてしまうのではないでしょうか。
ただ、技法に集中していると、どうしても自分のレベル上げや他者との比較に目が行ってしまうのも事実です。
また、趣味で絵を描いているとしても、ネット上や展覧会での評価がどうしても気になってしまいます。
芸術家はマイペースな人が多いというイメージがありましたが、ネット上のクリエイターや著名な画家をみると、「本当にそうか?」という気がしてなりません。
むしろ、会社員と違い自分の仕事(作品)に人格を懸けているからこそ、仕事に対する評価が自分という人間に対する評価だと思い詰めてしまっている人が多いように思います。
そういった意味では、承認欲求に振り回されざるを得ない過酷な職業なのだと思います。
勝手に面白くなる
技法も承認欲求も、私が訣別したかった競争主義に直結する危うさがあります。
せっかく都市や会社の競争主義的な雰囲気でせかせかとさせられるのが嫌で絵を始めたのに、これじゃあ何も変わらないじゃないか、そう思ってしまうのです。
しかし、冷静に振り返ってみると、今まで絵を描いていて一番心が躍ったのは私が努力して上達を実感したときではなく、「絵が勝手に面白くなったとき」でした。
技法を学び、それを忠実に再現し、精巧な絵を描く――なるほど、それは確かに充実感がありました。
しかし、こういったときの方が驚きと興奮があったのです:
- デッサンをしていて、試しにある場所に陰影をつけてみた瞬間に一気に立体として浮き上がって見えたとき
- 透明水彩で絵を描いていて、絵の具を濡れた領域に流したらにじみが奥深い質感を演出したとき
こうして振り返ってみると、陰影もにじみも確立された技法としての側面がありますが、当時は予想して意図的にそうしたのではなく、試しや偶然によって絵が勝手に面白くなり、そこには飛躍がありました。
絵を描くことを仕事のようなマニュアル作業だと思ってしまうと、究極的には模写になってしまい、速度や精度の方にばかり目が行ってしまいます。
ですが、仕事と違って管理してくる上司はいませんし、鬱陶しい規則も無いのですから、自由で開かれた心で色々試してみて良いのです。
そうした試みの大半は失敗に終わるのですが、たまに飛躍して面白くなるときがあります。
そういった天啓とでも言うべき瞬間をじっと待ち続けながら絵を描く姿勢は、さながら座禅や雨乞いのような感じがします。
そしてもし天啓があったとしても、それは天の恵みなのであって自己実現や自分の成果などといったものではない気がしてきます。
このようなものの考え方は、競争主義と訣別するための重大なヒントだと思います。
語り得ぬもので描く
絵を描くことには、技法が担当する領域と飛躍が担当する領域があると思います。
例えばデッサンの技法は、
- 上を向いている面は明るく、横を向いている面は暗く
- 稜線は実物よりも際立たせて描く
- ザラザラした質感を出すときにはハッチングを駆使する
など、語り得るものとして確立されています。
一方で、飛躍が担当する領域はひらめきのようなもので、本質的に語り得ぬものです。
なぜならば、もし「語り得る飛躍」があるとしたら、それは飛躍ではなく技法だからです。
語り得ぬものは、筋トレのように投入した資源に応じて増大するものではなく、座禅や雨乞いのように開かれた心でじっと待っていたら突然降ってくるようなものだと思います。
もし降ってきたらラッキー!天の恵みに感謝!――こういった姿勢は単に謙虚さを演出するものではなく、競争主義から脱して自然の素晴らしさを心から味わうような、私の目標とする姿に近いものがあると思います。
陰影やにじみといった技法は語られるが、語られずただ示されるものもそこにはあるのではないか