ストア哲学
「ストイック」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
この言葉は、古代ギリシャの哲学者ゼノンが創始した「ストア派」の哲学に由来しています。
何やら歯を食いしばって苦行に耐えるようなイメージを持たれがちですが、実際のストア派の教義はただ我慢をするというものではなく、自然と一致して生きることを目指したものでした。
ストア派の最終到達点、それは理性によって情動から解放された状態、すなわち不動の境地「アパテイア」なのです。
ストア派については世界史の知識として高校生の頃に知っていましたが、興味を持ったのは社会人になってからでした。
会社での労働で心を振り回されることが多かった私は、禅宗や仏教に関心を持ち、そこからストア派の思想にも触れました。
今思えば、困難に直面してスピリチュアルな方向に行きかけていたようにも思われ、多少の危うさも感じるのですが、それ含めて若かったということなのでしょう。
若き日の私には「情動があるからこそ人生は豊かなのではないか」とか、「問題解決を諦めてはならないのではないか」といった具合に反論が思い浮かんでストア派の思想がいまいちピンと来ておらず、「結局、精神を鍛えることで負の情動を消し去るということか」と勝手に納得していたようでした。
鬱病とアパテイア
「アパテイア」は「ア(無い)+パトス(情動)」というギリシャ語に由来し、感情に動かされない状態を指します。
これだけ聞くと、鬱病のように何の感情も湧かない状態と同じではないか、と思えます。
しかし、アパテイアと鬱病には明確に違う点があると考えます。
鬱病の際立った特徴の一つは、極小と極大の自己評価が併存している点だと思います。
自分が酷く無価値なものに感じられるという点では自己評価が極小である一方で、「自分のせいで迷惑をかけている」とか「何もかも自分が悪い」といったまるでこの世の原罪を全て背負っているかのような思考は自分の影響力を過大評価しているとも言えます。
一方で、ストア派は自然と一致して生きることを目指しており、自分のコントロール可能なものとそうでないものを区別することで情動に振り回されないようにしています。
例えば、後期ストア派のエピクテトスはこう述べています。
私たちの力が及ぶものは最大限に生かし、そうでないものは、なりゆきにまかせるのがいい。
――エピクテトス『語録』1.1
こういった姿勢は極小でも極大でもない自己評価に裏打ちされているもので、どんな結果でも受け入れられるという自信や勇気を感じさせます。
「無情動」というのは、何の感情も湧かないということではなく、外界から不必要に振り回されないということなのです。
受け入れ態勢で
若さなのか性格なのか、私はどうも無意識に、レベルアップを重ねて世界をもっとコントロールできるようになりたいと願って生きていたようでした。
仕事の能力を高められれば転職してより良い職場に行けるし、健康にお金を掛ければ病気の苦痛とは無縁でいられるし、努力を重ねれば世界をもっとコントロールできるのだ、という具合です。
もちろん、どう頑張ったってコントロールできないことがあるのは承知していましたが、それでもコントロールできる部分はどんどん広げていけるはずだと感じていました。
しかし、こうした姿勢は感受性を削ぎます。
世界を自分と地続きなものと見なしてコントロールしようとする姿勢は、内から外へと志向するものであり、ありのままの世界を感じる、すなわち外から内へと志向することと真っ向から対立するものです。
私がゲームやブログや絵などの創作をするときにアイデアを思いつくのは、外から内への志向が働いているときです。
もちろん、いいものを創りたいという気持ちはあります。それはコントロールしようとしているとも言えますが、いいものを創りたいという気持ちを頭の片隅にいったん放っておいて、感受性のアンテナをしっかりと張った状態で日常生活を送っていれば、ふとした瞬間にアイデアが降ってくるときがあります。
例えば、最近リリースした「Bridge Builder」というゲームは、ボーっと橋を眺めていたときにふと思いついたアイデアが基になっています。
また、私は透明水彩絵の具という画材を用いて絵を描くのが好きなのですが、これはデジタルイラストのようには修正が効かず、絵の具の物理的特性も相まって非常にコントロールが難しいものです。
そんな画材を使って絵を描くという作業は、絵の具が乾いてしまう前に諸々の作業をやり切らなければならないという鉄火場のようなもので、予想がつかない結果になることも多々あります。
ただ、流れに身を任せて、その時々の偶然を味わいながら描いていくという作業はとても心地よいものですし、自然の力を借りて自然と一体となったような特有の感覚を味わうことができます。
ストア派の最終到達点「アパテイア」は、私の中ではこうした受け入れ態勢の確立と結びつきました。
到達者たちは、決して無感情なのではなく、むしろ感性豊かに自然を味わっていたのではないかと思うのです。