他者の予感

東京砂漠

「パリほど孤独を感じる場所はない…それでいて群衆に囲まれている。」
これは確か、フランスの作家マルグリット・デュラスの言葉だったと思います。
孤独であるかどうかと単純にたくさんの人に囲まれているかどうかは別の問題だ、ということを端的に言い表した言葉なのではないでしょうか。
かくいう私も、満員電車や人混みではいつもこの言葉を思い出し、なるほど確かに一人でいるときより孤独に感じるな、と思ったものでした。

東京では人間関係が無味乾燥であり希薄で、その有様は「東京砂漠」と形容されることがあります。
人々が多くの時間を費やす会社も結局は日銭を稼ぐ手段に過ぎず、退職したらそれでおしまいです。
人との唯一の繋がりと思われた会社は、結局のところ砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだったのでしょう。

他者のいない世界

会社で労働をしていると、確かに多くの人に囲まれているのですが、同じくこの上ない孤独感に苛まれます。

株式会社というものは元をたどれば株主の私有物であり、資本を投下すれば収益が得られる箱のようなものに過ぎません。
みんな生活を人質に取られていて仕方がなく働いているだけで、本当は存在しない会社の理念への共感を求められても空虚な気分になってしまい、やがて自閉してしまうのでしょうか。
もしくは、会社に過度に適合し、同化し、自我を失ったゾンビのようになってしまった人も見たことがあります。この場合、定年退職しても人間には戻れず、急速に老化していくことも見てきました。
こんな状態で働いていたら孤独を感じるのは当然です。

もちろん、人とやりとりする機会はたくさんありますが、形式的で手続き的なものばかりです。
そうでないやりとりもありますが、逆に孤独感を増長させるものばかりです。
例えば、ある上司は「教育熱心」な方で、「議論しましょう」という体でオープンマインドを装って部下に意見を言わせてきますが、実際は部下の話などさらさら聞く気がなく、だったら最初から自分の意見を押し付けてもらった方がまだマシだったのです。
オープンマインドというのは、自由闊達に意見を言い合い、時には反発しながらも自他ともに変化していく、その姿勢のことを言うのだと思います。
その意味では、上司はもちろん私も全く変化しませんでしたので、二人とも他者のいない世界に生きていたのでしょう。

他者のいない世界では、謎は存在しません。
数をいくら足し合わせたところで「こんな数があったのか!」と驚くことがないように、他者がいない世界では全てが自分と地続きであり、全てはその延長線上にあるものに過ぎないのです。
そして、全てが自分と地続きなのであれば、「自分の」という言葉は意味を無くします。
偽札だけの世界があり得ないように、偽札は新札の存在を前提にした概念ですが、自己と他者の関係も同様で、他者のいない世界にはそもそも自己も立ち現れてこないのです。

他者の予感

世界から他者が消えていく中で、転機が訪れました。
偶然にも出会った人と結婚し、家族となったのです。
その人は、細かいことや慣習や表面的なものに囚われず、自分や他者の心に常に向き合って生きている人でした。
例えば、旅行に行ったとしてもモデルコースを回ることはまずなく、そのときの心に従って自由に探索するような、観光客ではなく旅人のような人です。
そして、自分や他者の心に向き合うためには言葉の力が必要不可欠であることから、言葉の力が研ぎ澄まされた人です。
それは単におしゃべりであるということではなく、人の心に訴えかけ、印象に残るような言葉の使い方ができる、ということです。
その人の友達は必ずしも多い方ではないですが、とても深い付き合いをしており、表層的でない付き合いというのを常に目指しているのだなと思います。
また、芸術的センスが卓越しており、周りからしきりに芸術家になるよう勧められる一方で本人は拒否するという、通常は逆ではないかという奇妙な事態も起きていました。
私もその人にもっと文章を書いて欲しいのですが、面と向かって言うことはできません。恐らくその人にとって文章を書くということは苦しみを伴うものであり、それを要求することはレモンを絞り出すことのように感じられるからです。

「あなたはどう思うのですか」――会社でそう聞かれたとき、それは「推論をせよ」という意味でした。
それに対し、私は「こういう状況なので、こう考え、その結果こうだと思いました。」と返し、インプットに対してアウトプットを返す関数のように振る舞いました。
しかし、その人が「あなたはどう思うのですか」と聞いてきたとき、私の関数としての機能に期待していたのではなく、むしろインプットとアウトプットはどうでも良くてその背後にある心を聞いてきたのです。
そして、その問いには強い志向性がありました。
人から指を指されるとハッとして自分の存在を強く意識してしまうように、私の心を直接聞いてくるような質問をされると自分の存在が強く意識されて、曖昧で地続きだった世界が明瞭な輪郭を帯び、自己が立ち上がってきたのです。
自己が立ち上がったということは、地続きな世界が終わったということです。すると、それまでいなかった他者の存在が予感されてきました。その他者とはもちろん、その人のことです。
そこでようやく「自分の」という言葉が意味を持ち、自分の気持ちというのが分かるようになると同時に、その人の気持ちも分かるようになりました。
「人には人の考えがある」という言葉は東京砂漠や会社などでは単に「利害関係の調整に敏感になれ」という意味しか持ち得ず、そこでは他の人は他者ではなくまるでロボットのようなものとして映るでしょうが、他者のいる世界では自分とは別の心を持った存在として他の人を直観できるのだと思います。

他者のいる世界は、謎に満ち溢れています。
自分と地続きではない世界だからこそ、その向こう側はどうなっているのか、簡単には分かりません。
簡単には分からないからこそ、時には衝突し、手探りで何回も対話を重ねる必要があります。
そうしてもし分かりあえたとき、それは地続きな世界で新たな知識を獲得したときとは全く別の種類の経験、すなわち認識の枠組みそのものが変わりうるような経験な気がします。 世界の外側を思考することができないように、自分の認識の枠組みとは違う他者の認識の枠組みを思考することはできません。
例えば、「あの人はきっとこう考えているんだろうな」と考えてみたとしても、それは「あの展望台からは海が見えるだろうな」と考えているのと同じで、視点が違うだけであくまでも自分の認識の枠組みでしか考えることができていません。
その意味では、確かに独我論は正しいのだと思います。
しかし、他者のいる世界における他者は、決してロボットのようなものではなく、強烈な志向性を持って私の前に立ち現れてきます。
自分の世界の外側を思考することはできないけれど、自分の世界の外側にいる他者の予感を感じるのです。

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