ただ生きればよいという話

ただ生きればよいという話

もう春は来ない

大学時代の友人が医学部再受験に成功したという報せが来た。
彼は会社員というものが絶望的に性に合わず、まるで人生の夏休みかのように楽しかった大学生活から一転、秋をすっ飛ばしてまさに厳冬期とでも言うべき悲惨な境遇に身をやつしていたのだが、ついに一念発起して医学部再受験という起死回生の手段に懸け、そして見事成功させて春を迎えたのだ。
学生時代はあれだけ明るかった彼が会社員になってからというものの心身ともに疲弊して瘦せこけた姿は見ていられなかったし、私は彼の人生の好転を心から祝福している。

ただ、どうしても私のこれからの人生と比較してしまう。
私は会社員であるが、会社員は転職しても入学式のような人生の区切りのイベントは無いし、せいぜい初日に歓迎会があるぐらいで、そこには同僚という意味の人間はいても生涯を通じた友になりうる特別な関係の人間はいない。
代り映えのしないブルシットジョブを生活のために続けながら、きっと気づいたら朽ちた老木のようになっており、定年退職は卒業式というよりは生前葬に近いだろう。
そう、私にはもう春は来ないのだ。

他者の人生との比較

そもそもなぜ、他者の人生と比較してしまうのだろうか?
私の考えでは、これは遺伝子からの警告なのである。

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』によれば、生命とは「遺伝子の乗り物」なのだという。
自己の複製すなわち生殖に有利な形質は遺伝子を通じて次世代に伝えられ、逆に不利な形質は伝わらずに淘汰される。
遺伝というと身体的特徴など物理的なものが連想されがちだが、人間の心理(より根源的にはその基となる脳過程)も大いに遺伝の影響を受けるというのが進化生物学や適応行動論と呼ばれる分野における主張である。
そして、配偶子のコストの違いにより、オスには強烈な淘汰圧が働く。
どういうことかと言うと、生殖にあたってメスは一度妊娠すると数ヵ月はまともに身動きできなくなる上に命懸けで出産をしなければならないが、オスは精子を放出するだけでよく、一匹のオスが何匹ものメスを相手にすることができる。
そして、圧倒的に強いアルファと呼ばれるオスが何匹ものメスを独占し、メスは安定して数匹の子孫を残せるのに対して、オスは0匹から数十匹と、残せる子孫の数に極端な格差が生じる。
これがオスに強烈な淘汰圧が働くメカニズムであり、この強烈な淘汰圧によりオスには競争志向が旺盛な形質が残りやすい。
自己実現の欲求などといった高尚なものというよりは、むしろ性欲の延長のような本能として、オスは他者と自分を比較し、競争してしまうのだろう。

人生は価値づけることができるか

なるほど、確かに他者の人生と比較してしまうのは遺伝子からの警告であって、本能的なものなのかもしれない。
しかし、そもそも人生というものは他者と比較することができるのだろうか?
遺伝子の警告というのは、あくまでも「お前はこのままでは子孫を残せないぞ」という生殖に関する警告であって、そこでの比較尺度は残した子孫の数であるが、別にそんなものは無視したって構わないのである。
私の疑問はそういった話ではなく、よりもっともらしい尺度で人生に価値を付けることはそもそもできるのだろうか、という点である。

ものさしは自分の長さを測れるか

価値とは、物の役に立つ性質のことである。
例えば私が今文字を打つのに使っているキーボードは文字を打てるという点で役に立つので価値があるし、このLogiのG913 TKLというモデルは特に打鍵感に優れているので他のキーボードよりも価値があると考える。
そこで言う価値とは、私にとって役に立つかどうかということであり、いわばものさしは私である。
ここで思うのが、私が自分の人生を価値づけるというのは、いわばものさしが自分の長さを測るような話ではないか、ということである。
素朴に考えると、例えばよくある30cmのものさしは30cmのように見える。当たり前の、生活の実感である。
だがそれは、測った結果として30cmとなるのではなく、最初から30cmである、のだ。
ものさしは、自分の長さを測ることができない。

人生の外部は思考可能か

なるほど、確かに自分では自分の人生の価値を測ることはできないかもしれない。
では人生の外部に出て、外側からならば自分の長さを測ることができるのではないだろうか?
私の考えでは、一見有用そうなこの考えは実はすでに袋小路にある。

人生の外部に出て、外側から自分の長さを測るというのは、RPGゲームに例えると分かりやすいかもしれない。
ゲームをプレイするあなたにとって、ゲームの世界にいるNPCには武器屋としての価値があったり、情報屋としての価値があったりする。
そのような具合で、今こうして眼前に広がる世界をRPGゲームの世界だと考え、それをプレイしているこの世界の外部の存在を考えてみればよいのではないか。

しかし、このような考えをしたところで人生の外部に出たことにはならないと思う。
この考えは、いわば自分が山のふもとに居て、遥か遠く山頂に聳え立つ展望台を見て「あの展望台からはきっと海が見えるだろうな」などと想像しているようである。
この想像において、「あの展望台」で「見る」主体はあくまでも自分であり、視点が違うだけで主体は同じ私ではないだろうか。
先ほどのRPGゲームの話でも、人生の外部に出たつもりでいて、結局は幽体離脱のように視点が変わっただけであくまでも見ているのは私であって、人生の外部に出たとは言えないのではないか。
つまるところ、人生は内側からしか把握され得ず、外部は思考不能である。

結局

ものさしが自分の長さを測ることができないように、人生に価値をつけることはできない。
人生の外側から人生を測ろうにも、人生の外部は思考不能である。
結局、沈黙して、ただ生きればよいのである。

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