アインシュタインと灯台守

アインシュタインと灯台守

アインシュタイン

アインシュタインの名前を知らない人はいないでしょう。
20世紀を代表する偉大な物理学者であり、また、ラッセル・アインシュタイン宣言に代表されるように平和主義者としての活動も知られています。
そんなアインシュタインは1905年、26歳のときに「ブラウン運動」「光量子仮説」「特殊相対性理論」というそれぞれがノーベル賞に匹敵するような理論を3つも発表しました。
それだけでも驚きなのですが、このときなんとアインシュタインは研究所にいたわけではなく、スイス特許局の職員としての仕事の余暇で研究を行っていたようなのです。
アインシュタインは物理学の研究で報酬を貰うことをやましいことだと考えていたようで、物理学者にとって理想の職業は灯台守であり、灯台守をしながら物理学を考えたい、といった趣旨のことを言っていたようです。

バブル崩壊までの日本社会

話は大きく変わりますが、日本社会は「戦後」という言葉では一括りにできないほど大きく変化しました。
戦後の復興から高度経済成長期までは、日本経済は目覚ましい勢いで成長していき、会社員は「モーレツ社員」と言われたように会社のために滅私奉公するのが当たり前とされていました。
ある精神科医は当時の日本社会の様子を「国を挙げた躁状態」と表現しており、私はこの表現がかなり的を射たものだと感じています。
「集団のために一致団結して滅私奉公する」という意味では、奉仕する対象が国から会社になっただけで、戦前も戦後のこの時期も日本社会の雰囲気や日本人のメンタリティはあまり変わっていなかったと考えています。
当時の働き方を知る人から、

  • 大部屋でワイワイガヤガヤと働き、夜には一緒にご飯を食べに行ってから会社に戻って最後に一仕事していた
  • あまりにも帰ってこないので奥さんから会社に苦情の電話が来た
  • 過労で目が見えなくなって救急車で運ばれた

などのエピソードを聞かされて隔世の感を感じた記憶があります。
このような環境は騒々しく集団主義的であり、静寂に包まれて孤独な灯台守とは真逆の環境です。
何かを黙々と、ひたすら考えるということは、おおよそ不可能だったのではないでしょうか。
社会の方も物質的に急激に豊かになったことでよく言えば活気に溢れていたのでしょうが、一方で今では考えられないほど犯罪が多発しており騒然としていたのも事実でしょう。

失われた30年からの日本社会

一方で、バブル崩壊後の日本社会は失われた30年と呼ばれる低成長期に入ります。
経済の停滞により終身雇用の維持が困難であることが盛んに叫ばれ、会社員の側も従来ほどは会社に滅私奉公しなくなっていきました。
そして、アメリカでの「静かな退職」や中国での「タンピン」のように、日本でも若者の労働意欲はかつてないほど低くなっております。
日本人のメンタリティという意味では、戦前と戦後よりも、昭和と平成の方が断絶が大きいのではないでしょうか。
人手不足も手伝って労働環境の改善が急速に進み、日本社会の躁状態が改善されたように思われたのですが、代わりに社会全体がどんよりとした閉塞感に包まれており鬱状態に移行したように見えます。
どうにも悪いことばかりのように思えますが、一方で灯台守として働きたいような人には理想の環境になってきたのではないでしょうか。

令和日本の灯台守

失われた30年がいつの間にか延長戦に入り、失われた40年として後世で語られることになる気がしております。(いや、もっと長いでしょうか。)
ただ、前述のような失われた30年での変化に加えて、コロナ禍で定着したテレワークという働き方により、かつてないほど灯台守的な働き方がしやすい時代になりました。
静寂の中でひとり黙々と働きながら、隙を見て何かに没頭して考え込む――そんな暮らしが私にとっては心地よいものであります。
孤独で静かで単調な日々の中でこそ思考は活性化し、そして新しい景色が見られるのだと感じています。

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