数学系ひきこもりの、せかせかしない日々
せわしない日々
3月、年度末の時期です。
異動の発表はさながら小学校の席替えのような一大イベントであり、閉塞感に溢れた会社員の生活に刺激を与える役割を持っています。
会社員の職業上の成功像は社内での出世であることが多く、特に大企業の総合職と呼ばれる人たちの関心事はもっぱら人事にあります。
面談に呼び出された社員の顔色を見て、
「ねえ、あの人は僻地に異動になったんじゃない?」
「支店長と相性が悪かったもんなあ」
と人事談義に花を咲かせる社員も多いでしょう。
会社の異動は小学校の席替えと違って机を動かすだけでは済みません。
引き継ぎを済ませ、引っ越し先を決め、取引先や異動元の部店に挨拶を済ませといった具合に考える暇もなく3月の日々はあっという間に過ぎていきます。
気づけば桜は散っており、五月病になる間もなく、せわしない日々が続いて行きます。
せかせかする
職業上の成功像を社内での出世に置くことが全く理解できなかった私は、こういったせかせかとした時期はあまり好きではありません。
確かに昭和のモーレツ社員の方がせかせかしていましたが、手厚い退職金制度や公的年金制度があったので人生設計は会社におんぶに抱っこで大丈夫でした。
一方で現在は退職金制度も公的年金制度も縮小傾向であり、会社のために全力で働きながら自分の人生設計も考えなければいけません。
昭和の時代に比べれば会社がホワイト化しているのは事実でしょうが、代わりに絶えず自身の労働市場での価値を考えながら人生設計を考えなければならないという過酷な状況に陥っており、現代の会社員たちも平日や土日を問わずせかせかしているでしょう。
高度経済成長という「国家を挙げた躁状態」が終わり、安定して成熟した国家になったと思いきや、相変わらずせかせかしている躁状態が続いている現状では、何かをじっくりと考えたり追求したりすることはできません。
私たちは今、「考えさせない日々」を生きているのです。
考えさせない日々に抗して
「考えさせない日々に抗して」というのは、哲学者の野矢茂樹さんのエッセイのサブタイトルです。
野矢さんは幼少期に犬の散歩をしながら色々考えた経験があったそうです。
そこで色々考えた経験が、哲学に少しは関係があるような気がする、といった趣旨のことを野矢さんはエッセイで述べておりました。
会社員がいくら考えさせない日々を生きているとしても、通勤中ぐらいは考える隙があります。
その時間にSNSやYouTubeを観てしまうと、「年金制度は破綻寸前!」や「都内の不動産価格の上昇がすごい!」などといった情報が否応なしに目に飛び込んでしまい、頭の中はわんわんとしてしまいます。
でも、コロナが終わって満員電車が復活してしまったので、じっくりと本を読むのも難しいです。スマホをやめろといっても、手持ち無沙汰でしょうがない。困ったなぁ。
数学をやろう
私の学生時代の尊敬する先輩の一人に、数学を愛するユーモアあふれる青年がいました。
その先輩は「俺は暇な時間というのが全く苦にならない。いつも頭の中に問題が何個かあって、それについて考えているだけで全く退屈ではないんだ。」と言っており、その発言が印象に残っているのは、夜行バスの消灯後の時間にスマホをいじれなくてもへっちゃらというのが羨ましかったからでしょうか。
数学をやるには、とても時間がかかります。
数学書を1ページ読むのに数日かかることはザラで、5,000円ほどの本で一年は楽しめるのでコスパで言えば最強格の趣味でしょう。
どうしても理解できない部分を目に焼き付けておき、頭の片隅に置いておきます。
そうしておけば、シャワーを浴びているとき、お味噌汁が煮立つのを待つとき、歩いているとき、電車の吊り革につかまっているとき、そういった様々な場面で、「そういえば、あれってどういうことなのかなぁ」とその問題が想起されて、運が良ければ突然「しっくりきた」という感覚になり、理解できていなかった問題の手触りがわかるようになります。
不真面目な態度であり良くないことは承知ですが、仕事中にも数学の問題を考えることはできます。
紙とペンがあればなお望ましいですが、なくても大丈夫。
真面目な顔をしてオフィスのデスクに向かいつつ数学の問題を考えているとき、職場の喧騒が消えて静寂が訪れ、まるで外の世界なのに引きこもっているかのような感覚になります。
上司からすれば、私はもっとせかせかした方がいいのでしょうが、すみません。
最低限やるべきことはやり、そして愛想良く振る舞っているので、それで許してくれませんでしょうか。
人生100年時代をせかせかと生きるのは困難であり、少なくとも私には到底無理に思えるのですが、この働き方なら折り合いをつけて長く働けそうですし、そうすれば会社にも長く貢献することができると思います。
考えて、考えて、とにかく考え抜くことで、せかせかした社会から心を守り、のほほんと過ごしています。
そんな私は「外に出ている引きこもり」に過ぎないのでしょうが、満員電車の中にいる人間にしては、少し穏やかな表情をしているのかもしれません。