何者にもなれなかった者の名刺

何者にもなれなかった者の名刺

名刺

来月に東京ゲームダンジョン4に出展するということで、3のときに作った名刺を再び眺めていました。

私は個人製作者なので、名刺も当然自作です。
会社の名刺は会社が勝手に作ったものですが、こちらは自分で一から手作りしなければならず、楽しかったものの苦慮した点がありました。
それは、肩書きです。
会社員であれば、名刺に書くことは極めて明確で悩む余地はありません。
定められたフォーマットに、部署や役職や資格を書いて、最後に連絡先を載せれば終わりです。
考える余地が全くないので、誰でも簡単に作れます。私の場合は発注すらせず勝手に作られていました。
しかし、個人制作者の私は自分の肩書きをどう表現すればいいのか分からなかったのです。

デザインもしていますが、デザイナーとは違う気がします。
ゲーム制作者ではありますが、ジェネラティブアートの活動もしています。
文筆や評論めいたことも好きですが、もっぱらそればかりというわけでもなく。
企画もしているのでゲームプランナーとも言えなくはないですが、実装も私で全てしているのでやっぱり違う気がします。

最終的には「Programmer」とだけ記載しました。だってなんだかかっこいいじゃないですか。

東京ゲームダンジョン3で使用した名刺

何者

自分が何者かを説明するのに、まさかこんなにも苦慮するとは思いませんでした。

しかし、私ぐらいの年齢になれば、そろそろ自分が何者でどういう人生を送るのかの「相場」がわかってくる頃です。そう、難しい年頃なのです。
ドイツの軍人ヒンデンブルクのように、定年退職後に二度の大統領を経験するような激動の人生を送ることは稀です。
だからこそ彼は畏敬の念を込めて「生涯に三度の人生を経験した」と言われているのです。
会社員としてブルシットジョブに邁進する私は、外から見て何をやっているか不明でしょうし、自分自身もよく分かっていないところがあります。そして多分これは定年退職まで続くのでしょう。
そして定年退職すればついには会社員ですらなくなります。最初から最後まで、何者かになれたというわけではないのだと思います。

さて、大学時代の友人知人の近況を除くと、学者として学問を極めるべく駆け出した人もいれば、起業家として社会の変革を野心的に目論んでいる人もいれば、メーカーの研究者として日本の科学技術を支える人もいれば、医師や法曹など社会的に重要な専門職に就いている人もいます。
彼らは自分が何者であるかを明確に説明する言葉を持っており、そして明快なストーリーで自己紹介をします。
きっと、名刺もすぐに作っちゃうと思います。

呪縛

そもそも私は自分について言語化することを意図的に避けているところがあります。
それは、言語には「自己規定的な効果」があると感じているからです。

ところで、円錐の断面は、切り方によって双曲線になれば、放物線になれば、円にも楕円にもなります。
人間も円錐のようなもので、言語によって説明されるのは一つの断面でしかなく、実態は三次元的な膨らみを持った立体なのだと思います。
それだけならまだいいのですが、「自分は〇〇です」と言葉で説明することで、それ以外の断面が見えてこなくなることが多々あります。
周りから見てもそうですし、本人も自分を明快な言葉で説明することで、それ以外の可能性や側面について見えなくなってしまっているのではないでしょうか。
私はこれを言語の「自己規定的な効果」と呼ぶことにし、そして恐れることにしました。
好奇心だけは有り余っている私にとって、可能性が閉ざされることは何よりも恐れることだからです。

ただ、私はどうやら言語の呪縛を恐れる必要はないようです。
だって、何者でもないのですから!

まごころをこめて

何者でもない者の名刺はどのような形をしているのか、ずっと考えていました。
言語に呪縛されなくてよい幸運を享受しつつ、それでいて、自分がどういう人間かを初対面の人に知ってもらう方法は何か。
歩き回りながら考えて、「私の名刺はこのnyoroko Apps自体なのだ」という回答に辿り着きました。

このサイトには、ゲームもアプリも論考もエッセイも全部載っていて、それらは直ぐに遊んだり読んだりできます。
そして、Webサイトはリンクを送れば相手のスマホですぐに見ることができます。
この柔軟性と機動性の高さがまさにWebサイトの強みであり、そして名刺たり得る所以なのです。

名刺代わりに作品を見てもらうことで、人という語り得ぬものを語ることができるのではないでしょうか。
例えば、私の流体シミュレーションゲームを見せたとき、「どうやらこいつは物理が好きそうだ」とか「この人は砂場で遊ぶのとかも好きそうだ」とか「子どもの頃におもちゃ遊びに熱中してそう」といった形で人となりがなんとなく想像できるのではないでしょうか。
私の人となりの解釈を相手に委ねることになってしまいますが、これは言語によって自身を説明した場合でも結局同じです。
それならば私という立体をあなたに切ってもらって、あなたにその断面を見出してほしいのです。

そう考えると、私が作る作品は私の人格を表すものだという意味合いも背負うことになり、より一層の重みを背負います。
だからこそ、より一層のまごころを込めて、ゲームを作り、アートを製作し、そして言葉を書き連ねていこうと思います。

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